遺跡を訪れることを考古学の専門家は「踏査」と表現します。「物」(形のあるもの)を研究する学問である考古学にあっては、遺跡の現地に足を運ぶことは大変重要なことです。

 例えば、ある古墳を踏査したとしましょう。
皆さんは、何を最初にしますか?
大多数の人が古墳の墳丘に登って「大きいなぁ〜」とつぶやいてみたり、また石室に入ることができる古墳の場合には、すぐにその中に入って「こんな巨大な石をどうやって運んだのだろう?」と思ったりするのではないでしょうか?

 遺跡に直接接するということは何よりも重要なことですし、これで十分とも言えますが、さらに一歩進めて別の見方をお勧めしたいと思います。古墳の場合、築造当時、支配者のお墓としての性質上、墳丘に登るのはごく限られた人物にだけ許されたことだと容易に想像できますし、石室はそもそも土中にあって実際に入れるものではありません。したがって、その古墳の意義を考える際には、これらの行動は余り意味がないように私は思います。


 では、何をすべきでしょうか?
私は、古墳そのものよりも、その「周りの状況」を十分確認する必要があるように思います。2000年経って、地表は大きく変わっても、風景はさほど変わっていないのです。

 私が一番関心をもっている前期の前方後円墳の場合、特に顕著なのですが、小高い山の頂上にあったり、海や大きな河川を見下ろす場所に築造されている場合が大変多いのです。

 写真は山口県柳井市にある「柳井茶臼山古墳」を瀬戸内海側から見た写真です(中腹の白く見えるのが古墳です)。これは何を意味するのでしょうか?
 
 やはり往来する人々から見やすいように造っている、見てもらうことを意識しているということがわかります。

 
つまり、古墳を造った場所の考察から、築造者の意図や古墳築造の意義が推測できるのです。逆に古墳が存在する場所から、当時の人々の往来に使われた「道」や「河川」の存在を確認することも可能となります。
 
 
 奈良県桜井市の「脇本遺跡」は、雄略天皇の宮(泊瀬朝倉宮)の跡ではないかとされています。
地表には何も残っていない遺跡ですが、この場所は当時の王権の中心地の奈良県東南部へ東国から入る際の入口にあたる場所で、その認識だけはもって私は脇本遺跡を踏査しました。

 しかし、昨年11月に橿原考古学研究所の前園実知雄先生の「雄略天皇・泊瀬朝倉宮を求めて」と題する講演をお聴きした際に、先生から「脇本遺跡の場所は、神の山である三輪山の南麓で唯一、三輪山を拝することのできる場所で、かつ初期の王墓といわれる巨大前方後円墳である桜井茶臼山古墳を望むことのできる場所でもある」旨のご指摘をいただき、自分の遺跡踏査の未熟さを痛感しました。
雄略天皇は、このような場所であることを明確に意識して、宮を造られたことは間違いないことだと思います。

 皆さんも、遺跡を訪れた際には、遺跡そのものだけではなく、その周りもよく見渡し、なぜそこにその遺跡があるのかを考えていただくと、その時代の人々と想いを共通にすることができるのではないでしょうか。




【付記】大変興味深い本が出版されましたので、ご紹介します。
『生殖医学から古代の謎に迫る』 江本精 著(勉誠出版)です。

 著者は産婦人科の医師ですが、
「神社は子宮である」、
「しめ縄はへその緒」、
「勾玉は胎児そのもの」、
「前方後円墳は子宮のイメージで築造した」など
斬新な説を展開しておられます。

 中でも、縄文時代に作られた土偶について、あのサングラスをかけた宇宙人のような風貌の有名な遮光性土偶は、当時高い死亡率を有した妊娠中毒症(妊娠高血圧症候群)によりむくんだ妊婦を現しており、同中毒症により死亡した妊婦の霊を慰めるために、この土偶は作られたとのご指摘(同書115頁〜117頁)は土偶の姿の謎を解く具体的で、有力な考え方のように思いました。


1-私の趣味は 考古学
2-考古検定
  3-古墳時代研究への疑問
  4-前方後円墳は「蛇」
  5-遺跡の見方
  6-ドラマ出演
  7-温泉ソムリエ
  8-東京五輪・パラリンピック大会ボランティア


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